さよならアーバン〜都会型R&Bの世界

2020年、音楽のジャンルから”アーバン”が消えてしまいましたが、”アーバン”がまだ肯定的で魅力的な言葉だった時代の、都会的で大人なR&B(ブラコン?)の流れを振り返ります TEXT by 堀克巳(VOZ Records)

カテゴリ: プロデューサー

 共にNYハーレム出身で、共になかなかチャンスをつかめないでいた男性シンガーとHIPHOPの若きクリエイターが出会ったことで、R&Bシーンの歴史を変える新しいサウンド・スタイルが生まれることになります。
 シンガーの名前はキース・スウェット。 証券マンをやりながら、ナイトクラブなどで歌手活動を並行してやっていました。 
   1985年にはスタジアム・レコードというインディーズからシングルをリリースしています。この時すでに25歳でした。
 

 クリエイターの方は、テディ・ライリー。おじさんがハーレムでクラブを経営し、スタジオも持っていたために、幼い頃からそこに入り浸ったこともあって音楽的に早熟だったようです。 
 17歳で「KIDS AT WORK」というグループでメジャー・デビューもしますがすぐに解散してしまいます。 
   
 それからは、ヒップホップのトラックメイカーとして 活躍することになります。
 1986年にはクール・モー・ディーの「Go See The Doctor」という曲をプロデュースし、インディーズながらビルボードチャートで89位まで上がるヒットになりました。

  いまあらためて聴き直すと、”ハネているリズム”に、テディ・ライリーが生み出したあの”新しいサウンド”の原型が既に現れていたことに気づきます。

 ニューヨークのクラブシーンで知名度を上げていたふたりはお互い面識があったようですが、キースのデビュー作を共同で作りを始めることになります。

 興味深いのは、それまでテディはヒップホップしか作ったことはなく、声がかかるまでR&Bをやるつもりはなかったということです。 キースとの仕事で初めてR&Bをやることになり、彼はクインシー・ジョーンズ、プリンス、ジェームス・ブラウン、ギャンブル&ハフ、カシーフ、エムトゥーメイなどを研究し吸収していったようです。

「ラップのプロデューサーで僕が学べる人はいなかったから、ラップは自分だけでやっていたけど、R&Bはそういう人たちの曲をたくさん聴いて学んでいったんだ」 

  今の時点で振り返ると、当時のテディの作ったラップものはあまりHIPHOPっぽくない、という評価もあるようですが、誰からも学ばずに我流でやっていたので仕方ないともいえます。また、彼の適性もR&Bのほうにあったのかもしれません。

 でも、当時のHIPHOPサウンドにモロに影響を受けず我流だったとことが、 かえって新しいサウンドを作る大きな要因になったのではないかと僕は考えています。

 その新しいサウンドとは”ニュージャック・スウィング”。それを世に知らしめたのがキース・スウェットのデビュー曲「I Want Her」。1987年後半発売で1988年には年間最も売れたR&Bシングルになります。 無名の新人がそこまで成功するわけですから、それだけ当時斬新だったわけです。



  この曲の収録されたアルバム「Make It Last Forever」もR&BチャートNO.1になります。 
 ただ、あらためてこのアルバムを聴くと「I Want Her」が異色で、基本ミディアムからスローの曲で構成されています。前回ご紹介したように1987年は、セクシーでロマンティックなミッドかスローな曲をやるというのが主流で、ニュージャックの出発点と思われているこのアルバムも、全体的にはちゃんとそれに準じた作りになっているということです。キース本人の嗜好もそっちだったと思われます。
 そして、その後のキース・スウェットの歩みを見ていくと、セクシーで”まったりした”楽曲でR&Bの帝王の一人になっていきます。決して"ニュージャック・スウィングのアイコン”にはなりませんでした。

 「I Want Her」はキースがテディに”ノせられて”やったようにも思えます。

 そして、この曲でテディは絶妙なディレクションをします。

 「わざと鼻にかかった声で歌ってほしい」

 とリクエストしたらしいのです。キースは最初は拒否しましたが、結局要望に応えます。

 思い出してください。87年の男性R&Bシンガー、ほぼ全員が、おしゃれで、セクシーで、ロマンティックな、ミディアム・スローを歌い、大衆もいい加減飽きてきたところに、”やたらリズムがはねているノリのいいトラックに乗った鼻声の男の歌”が聞こえてきたら、そりゃあ無茶苦茶目立ちます。

 キース・スウェットの個性を考えたら、テディ以外のクリエイターと組んだら、1987年に量産された"セクシャル・ヒーリング系”のアーティストと同じようなサウンドになっていた可能性だってあったと思います。テディのトラックはミディアムやスローでも、すでに熟(こな)れた感のある当時の他のR&Bに比べて、リズムのエッジが妙に立っていました。

 それを考えると、キースとテディの邂逅、そして既存のスタイルが飽和状態で体臭が飽き始めていた1987年というタイミング、すべてが絶妙にハマったと言えると思います。

 そして、ニュー・ジャック・スウィングは、90年代にR&BとHIPHOPが融合する以前の、最後のR&Bサウンドという見方もありますが、今検証してみると、HIPHOP畑のクリエイターとR&Bシンガーの化学反応ということでは、HIPHOP SOULの前ぶれ、でもあったのだと僕は考えています。

 キース・スウェットも、脱”セクシャル・ヒーリング”、脱”ロック・ミー・トゥナイト”に成功し、かつ現在の”R&Bの王様”R.ケリーの登場への道筋を作った、重要な存在であったと思います。
 90年代のR&Bの王様はフレディ・ジャクソンとルーサー・ヴァンドロスでした。90年代半ばから現在まではR.ケリーの超長期政権が続いています。その間に、キース・スウェットを置いてみると、王座の移行がとてもスムーズに見えてきます。

 R&BがHIPHOPに吸収されてゆくという、歴史的な大きな大変革の時期に、キース・スウェットとテディ・ライリーは重要な橋渡しの役割を担ったのだと僕は考えます。彼らが活躍したからこそ、その移行がスムーズになったのです。

 テディがキースに指示した「鼻声ディレクション」というのも、トラックを生かすボーカル・ディレクションという意味で、R.ケリーが得意とするヒップホップ・シンギングの先駆けだったのではないか、とも思えてきます。もちろん、テディやキースは作品を面白くする、ためだけのふるまいだったのでしょうが。
 最後に「Make It Last Forever」のタイトル曲を。今ではR&Bの定番曲のひとつ。あらためて聴くと
トラックは当時の”セクシャル・ヒーリング調”のマナーにけっこう従順に作られています(リズムは大きめですが)。でも、当時フレディ・ジャクソンたちと全然違って聴こえたのは、テディのトラック以上にキースの声質が大きかったのかも、という気もします。


Make It Last Forever
Keith Sweat
Rhino Flashback
2011-06-21



 
 
  

 80年代始めにディスコ・ブームが終わっていゆくのと同時に、リズムマシーンとシンセサイザーの”お手頃価格”のモデルが現れて普及することによって、そのサウンドがR&Bシーンも席巻しました。その代表がシンセ・ファンクです。そして、80年代半ば頃にはその反動とも言える、バラード・シンガーの台頭という動きがあり、それはまさにアーバン・アダルトR&Bと呼ぶにふさわしい音楽でした。

 しかし、80年代初頭の段階ですでにアーバン・アダルトR&Bの先鞭をつけた、もしくは先駆けてそういうスタイルを示したパイオニアがいます。
 それがルーサー・ヴァンドロスです。 

 81年のデビューアルバム「Never Too Much」のときに彼は既に30歳でしたから、相当な遅咲きです。
  70年代の彼は、クインシー・ジョーンズやアリフ・マーディンといったポピュラー音楽史に残る大プロデューサーからも気に入られていた、正真正銘トップ・クラスのバック・シンガーでした。R&Bに限らずデヴィッド・ボウイやトッド・ラングレンなどのバックもつとめています。  

 ちなみに、これが彼がクインシーのアルバム「スタッフ・ライク・ザット」で歌っていた曲です。
 

   彼はバック・シンガーという「裏方仕事」を見事に自分の「武器」に変えました。自分のデビュー・アルバム「Never Too Much」をセルフ・プロデュース出来たのも、数々のレコーディング現場で蓄積されたノウハウのおかげでしょう。そして、スタジオ・ミュージシャンやバック・コーラスなどの人脈もこのアルバムでフル稼働させています。ルーサー・サウンドの核でもあるベーシスト、マーカス・ミラーもそのひとり。スタジオの現場でマーカスの評判を聞いていたルーサーが、ロバータ・フラックのツアーでバック・コーラスをやっているときに、欠員になったベーシストの代わりとして彼を推薦したのが最初の出会いだったということです。
 また、彼は学生時代にハーレムのコーラス・グループに所属しているときに知り合ったキーボーディスト、ナット・アダレイJR(有名なジャズ・トランペット奏者ナット・アダレイの息子です)も、自身の重要なブレインとしてアルバム制作に招き入れています。


 セルフ・プロデュースによるデビュー・アルバム としての完成度の高さ、という点では「Never Too Much」に勝る作品はちょっと見当たらない気がします。曲よし、歌よし、演奏よし、ミックスよし、勢いもある。2軍で下積みをみっちりと何年も経験した後、1軍デビューした年にトリプル・スリーをマークしたバッター というところでしょうか。

 1981年はリック・ジェームスが大ブレイク、ザップのロジャーなどファンキーな曲が主流の年でした。クール&ザ・ギャング「セレブレーション」、E.W&F「レッツ・グルーヴ」などベテランたちも”もろディスコ”ではないダンス・ナンバーを送り出していました。
 そんな中で実力派のスタジオ・ミュージシャンを結集させた”真っ向勝負の”作品はかなり時代に逆行していたわけです。唯一同じ年にアリフ・マーディンがプロデュースしたチャカ・カーンのアルバム「What Cha' Gonna Do For Me」が少し近い作りかもしれません。ポスト・ディスコのサウンドを探っているこの時期だからこそ、ディスコとは違うハイクオリティなものが現れると目立つことが出来た、と言えるのかもしれません。ディスコの大ブームの時期では、ルーサーも本領を発揮出来なかったでしょうから、たとえ遅咲きになったとは言え、今考えてみると適切なタイミングのデビューだったと思います。

 

 セカンド「Forever、for Always、For Love」(1982年)も同じ路線の素晴らしい作品で、サードの「Busy Body」(1983年)は少し当時の主流のR&Bにちょっと合わせちゃったかなあ、という感じもありましたが、1985年、僕の大好きなR&Bが沢山生まれた年ですが、彼の「THE NIGHT I FELL IN LOVE」)は、バラード・シンガー・ブームの流れの中心的役割を担うような内容で、彼のアルバムの中で最もアーバン・アダルトR&Bなのはこれだと僕は思っています。なにせ、アルバムの邦題からして「マンハッタン・ナイト・ラブ」ですから。
   フレディ・ジャクソンのアルバム「ロック・ミー・トゥナイト」とずっと1位を競い、長くチャートの上位にいたと記憶しています。この2枚のアルバムは当時の、夜のラヴアフェアの必需品だったのでしょう。

 そう言えば、フレディ・ジャクソンが、自分をプロデュースしてほしかった人として、ルーサーの名前を挙げています。ルーサーは自身の作品以外にも、アレサ・フランクリン、シェリル・リンなど素晴らしいアルバムをプロデュースしています。この時代、ルーサーとフレディはR&B男性シンガーのトップを争う関係でもあった訳ですが、一人のシンガーとしてみた場合、ルーサーのヴォーカルもののプロデュース能力というのは目を見張るものがあったのでしょう。ルーサーがフレディよりも長く売れることが出来たのも、こういうアーティストとしての音楽的奥行きが彼の方にあったからかもしれません。

 
  80年代から90年代にR&BがHIPHOPに吞み込まれるまでの十数年間,彼がキング・オブ・R&Bであったのは間違いありません(80年代後半の数年はフレディ・ジャクソンと双頭でしたが)。R&BがHIPHOPに吞み込まれて以降のキングは当然、R.ケリーでしょう。
  
 では最後に「THE NIGHT I FELL IN LOVE」からブレンダ・ラッセルが書いたせつないバラードを。

  彼は今までに書いたシングルのうち47曲が全米TOP10に入ったという、まさに大ヒット・ソングライターです。そして、その多くを彼が自身が歌詞も書き、それがほぼラヴ・ソングだということは特筆すべきでしょう。

 どこまでがラヴ・ソングなのかという定義はないのではっきりは言えませんが、男女の恋愛、ラブ・アフェアーに完全フォーカスした歌、ということでは、彼が一番たくさんヒット曲を書いているんじゃないかと、あくまでも推測ですが、僕は思います。

  彼はあるインタビューで、12才のとき大きな恋をして、記憶に残るようなときめきと同時に痛手も経験したと語っていました。それをきっかけにギターを手にして生まれて初めて曲を書いたそうです。彼のアーティストとしての「原型」はギターの弾き語りで詞,曲両方を書く”シンガー・ソングライター”というわけです。これはR&Bのアーティストとしてもレアですし、プロデューサーとしては稀少だと思います。彼の場合歌詞とメロディーに同等の価値があるわけで、その辺りバート・バカラックともデヴィッド・フォスターとも違うわけです。

 そして、曲作りの 大きなきっかけが恋愛のトラウマというのはこれはもう宿命的とさえ思えますね。彼が何十年もラブソングを書き続けられる理由がわかるような気がするエピソードです。
 
 さて、 ミュージシャンとして活動を始めた彼はマンチャイルドというファンクバンドに参加します。そのアルバムにも彼のその後の作風の片鱗を見せるような曲が入っています。


    1981年にLA.リードに誘われて彼のグループにTHE DEELEに加わり、83年にソーラーレコードからデビュー。同じ年に、ソーラーレコードの社長ディック・グリフィーから声がかかり、以前にこのブログでも紹介しましたが、ミッドナイトスターにSLOW JAMという名曲を提供します。
 
 86年に彼はソロ・アーティストとしてのファースト・アルバム「LOVERS」をリリース。これはLA&Babyfaceとしてフルアルバムをプロデュースした最初の作品でもあります。まだ、大きな実績のなかった彼にソロ・アルバムを作らせ、LAリードのコンビでセルフ・プロデュースさせた、ソーラーレコードの懐の深さには感服します。その甲斐あってか、翌87年から彼らはヒット曲を連発するようになります。

 また、このころ彼はもう27歳でずいぶん遅いデビューとも思えますが、彼がバンド活動をやっていた70年代後半~80年代前半はディスコからシンセ・ファンクへの移行期で、彼のようなラヴ・ソングライターが本領を発揮しづらい時期だったと思います。そして、80年代中ごろになってシーンも落ち着きを取り戻してバラードが売れるようになって、ようやく彼の出番が来たのだと僕は解釈しています。

 さて、この「LOVERS」。当代切ってのラヴソングライターらしいタイトルではありますが、いきなりカバー曲で始まっています。スタイリスティックスの「誓い」です。シャイな彼のイメージには、ちょっと王道すぎる肝しますが、彼の内側にあるものは実はこういう究極の恋愛観だったりするのかもなあ、と思ったりします。
 後のアルバム「For The Cool In You」では「ユー・アー・ソー・ビューティフル」をカバーしていますが、これも同様な選曲ですね。愛する女性を永遠に敬い続けるような彼の本質が見えるような気がしますし、彼の作る歌の芯にはぶれないプラトニックさがあると思います。このアルバムには「Chivalry(騎士道)」なんて曲もあって、R.ケリーだったら絶対歌わないだろうなあなんて思います。

 アルバム全体では、軽快な印象があります。明らかにジャム&ルイスの作風を真似たようなものもあります。まだ、次の大ヒット作「テンダー・ラヴァー」に比べると、まだ習作的な感じは否めませんが、彼の本質はここにしっかり表れているということは間違いありません。







 

 

  Babyface。
 R&B史上いや、ポピュラー・ミュージック史上でもトップ・クラスの 実績を持つスーパー・ソング・ライター。
 L.A.リード 。
 アリスタ、アイランド/デフジャム、エピック、と大レコード会社の社長を歴任し、アメリカのオーディション番組「Xファクター」の審査員もつとめた、今の音楽業界で最も有名なエグゼクティヴ(ちなみに、今年5月にアシスタントへのセクハラ疑惑でエピックの社長を辞任しています)。

 この二人がプロデューサー・チームを作って、ジャム&ルイスとともに80年代から90年代にかけてまさに一時代を築いたわけですが、それを知る人も今ではなかなかの(?)年齢になっているかもしれませんね。

 何故二人で組んだのですか?という質問にBabyfaceは「ジャム&ルイスに憧れて」とやけに正直に語っています。

 ただし、ジャム&ルイスと彼らを比較した場合、コンビの役割分担はかなり違ったんじゃないかと思います。

 ジャム&ルイスは地元の顔見知りで学校の先輩後輩(ルイスが2歳上)で、ルイスのほうが誘ってチームを組んだそうです。二人の作品を聴くと、どこまでがルイスの仕事でどこまでがテリー・ジャムなのか、役割分担がよくわからないように思います。

 では、L.AリードとBabyfaceはどうでしょう?
 L.AリードはアッシャーなどR&Bアーティストに限らず、アヴリル・ラヴィーンと契約したりと、数多くの才能を見出した人ですが、

 あなたが最初に契約した人は誰ですか?  という質問に対して

「いい質問ですね。それはBabyfaceです。」と答えています。

  そして、"それはまだ僕がレコード会社は持っていなかった時代ですが、僕が自分のグループ(THE DEELE)に彼が参加するように声をかけ、曲作りやボーカルをやるように頼んだんです"と語っています。彼がその才能にほれて一緒に仕事をしようとスカウトした最初の相手がBabyfaceというわけです。

  BabyfaceはLA.リードのことを"最初から彼はビジネスマンだった"と冗談交じりに言っています。THE DEELE時代からバンドの交渉ごと、食べ物に関する細かいことまですべて彼がしきっていたようで、当初からリーダーシップに長けていた人だったようです。

 LA.リードはドラマーですが、ピアノやバイオリンも弾けて曲も書けるようですが、THE DEELEのときでも共作はいくつかありますが、それほど積極的に曲作りには参加してきません。

 さて、その二人がいたTHE DEELEというグループですが、1983年にソーラーレコードからレジー・キャロウェイのプロデュースでデビューしています。そう、ジャム&ルイスとL.A&Babyfaceという2大プロデューサー・チームはともにソーラー・レコードからそのキャリアをスタートさせたのです。単なる偶然ではなく、アーティストだけじゃなくクリエイターの新しい才能にも常に目をかけてチャンスを与えるという風土が、ソーラーレコードにあったからそこに才能がしっかりと引き寄せられたのだと僕は思います。
 1985年のTHE DEELEのセカンドアルバム「Material Thangz」では、L.Aリードが単独でプロデュースを行っています。ちなみにドラムのプログラミングも彼が行っていて、彼はリンドラムとオーバーハイムのDMXを使っています。

 このアルバムは商業的に成功しませんでしたが、Babyfaceの名バラードが入っていることで後に評価されることになります。

 
   Babyfaceの本質は歌詞、曲を書き自ら歌唱をするシンガー・ソングライターです。自分で完結できるわけです。そこにわざわざL.Aリードが加わったのは、彼になくて必要なものをリードは持っていたということなのでしょう。
 たぶんのそのひとつは、リズム。アップテンポのリズムのアイディア、ドラムのプログラミングは当初彼がやっていたのじゃないでしょうか。 
 それから、客観的な目線とヒットの嗅覚。これはプロデューサー気質、ということなのだと思いますが、Babyfaceの作った曲のデモを、ヒットさせるために客観的なジャッジをして、そこにより売れるためのアイデアを加えてゆく。
 
 スーパーシャイな天才ソングライターとビジネス感覚に優れた凄腕プロデューサー、まったく天分の違った二人が、完璧に補完しあうことで、一連の大ヒットが生まれたわけです。
 
 Babyfaceがリードとの仕事でリズム作りとプロデュースのノウハウを身につけ、リードはよりビジネスの面白さに埋没していったので、二人が円満にチームを解消したのは当然なことなのかもしれません。


 セカンド・アルバムがセールス的にこけたTHE DEELEですが、1987年にL.A&Babyfaceとしてプロデュースしたサード・アルバムで見事雪辱を果たします。シングル「TWO OCASIONS」が全米R&Bチャート5位、ポップチャートでも10位に入るビッグヒットになったのです。 同じ年には彼らが曲を書きプロデュースした、ウィスパーズ「ロック・ステディ」、ペブルス「ガールフレンド」が全米トップ10入りし、彼らの名前は一躍シーンに広まることになりました。




  ちなみに彼らの最初期にプロデュース作品にはこんなものがあります。
 
Material Thangz
Deele
Unidisc Records
1999-06-07

Eyes of a Stranger
Deele
The Right Stuff
1997-01-14








 

 
 1980年初めごろにLAのソーラーレコードには働いていたディナ・アンドリュースという女性がいました。彼女はある若いソングライター・チームと知り合いになります。それが、ジミー・ジャムとテリー・ルイスです。
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 彼らはミネアポリス出身で、”THE TIME"というバンドのメンバーでした。THE TIMEはプリンスのライヴの前座をやったり、作品をプロデュースしてもらったりして、完全なプリンス・ファミリーでした。彼らが前座を務めていたプリンスの「戦慄の貴公子」ツアーが終わった後、ジミーとテリーだけはミネアポリスに戻らず、二人でLAに向かいそこでデモテープを作ります。そして、ディナにそれを渡しました。まず、彼女はソーラーの社長ディック・グリフィーにデモを聴かせます。デモを気に入ったディックはさっそく、ソーラーの女性グループ、クライマックスに歌わせることにします。
 
 *こちらは彼らの作詞作曲プロデュース


*こちらはメンバーの曲で、プロデュースが彼ら


 彼らのいわば処女作ですが、ジャム&ルイス・サウンドの骨格のようなものはもうこの時点であったことがわかります。

 彼らはまた、業界人のバスケットボール・チームでソーラーのリオン・シルヴァーズとも知り合いになり、彼にもデモを聴かせます。
 リオンは気に入りさっそく、Real To Reelというソーラーの新人バンドで彼らの曲を採用し、スタジオでプロデュース・ワークをみっちり彼らに伝授します。特にボーカル・レコーディングの重要さとノウハウを教わったと彼らは語っています。サウンド・プロデュースよりもボーカル・プロデュースができてやっと本当のプロデューサーと言えるのだと、とリオンは言っていたそうです。
 そして、そこから同レーベルのダイナスティ、R&Bの大物グラディス・ナイト&ザ・ピップスへとつながります。





 
 彼らはディナを通じて、クラレンス・アヴァントという、ウィキペディアでは”ブラック・ミュージック界のゴッド・ファーザー”などと書かれているほどの大物を紹介してもらいます。彼は1970年代前半にはサセックス・レコードを経営し、ビル・ウィザースの「リーン・オン・ミー」などの大ヒットを出しています。サセックスをたたんだのち、1975年に”TABU Records(タブー・レコード)”を創立しますが80年代前半の当時は、不振にあえいでいました。
 また、リオンは「High Hopes」という彼らのデモ曲を聴いて気に入り、クラレンスからプロデュースを依頼されていたSOSバンドに取り上げさせることにしました。


 「High Hopes」がR&Bチャート25位の好成績をあげたこともあって、彼らは次の作品のアレンジ、プロデュースを任せられることになります。それが「JUST BE GOOD TO ME」でR&Bチャート2位、総合でも55位に入り、彼らの名前は一躍広まり、タブーも一気に勢いづくことになります。

 ちなみに、この曲のデモはカシオのキーボードと生のベース、そして風呂場でエコーを効かせたハンドクラップで作ったそうです。そのデモを持って彼らはSOSバンドの地元アトランタに行ったそうですが、そのスタジオにTR808があったので、使ってみたそうです。

 初期ジャム&ルイス・サウンドのトレードマークであるTR808が、彼らの最初のプロデュース曲を録音したスタジオに”たまたま”あったというのは、なんとも不思議な気がします。

 それから、アトランタ、というのも興味深いです。ベテランのR&Bファンの方はご存知の通り、90年代にはR&Bの”首都”になった場所です。ジャーメイン。デュプリが活躍し、それまで何の縁もなかったベイビーフェイスとLAリードまでが移ってきました。
 80年前半にアトランタのスタジオでジャム&ルイスがTR808のビートをセットした瞬間に、すでにアトランタ・ブームの種火がつけられていたのではないか、なんて想像もしてしまいます。
 ちなみに1996年のアトランタ・オリンピックの音楽監督はジャム&ルイスが務めています。

 彼らは当時ザ・タイムを辞めてはいなかったのですが、SOSバンドの仕事をしているときに猛吹雪で飛行機が飛ばず、ザ・タイムのサンアントニオのコンサートに彼らは行くことが出来なくなるという事件があったそうです。そして、それを知って激怒したプリンスからクビを言い渡されます(その後、テリーだけは戻ってこいという電話があったそうです。ベーシストの代役は見つからなかったのでしょう。)彼らのプロデューサーのキャリアは順調に始まり、もう後戻りするつもりは彼らにはありませんでした。

 しかし、プリンス、リオン・シルヴァーズと素晴らしい師匠を持ったことが彼らの勝因だったのかもしれなせん。ミネアポリス・サウンドとソーラー・サウンドのおいしいところをとった感じもしますし。
 ちなみに、プリンスは音楽は映像的でなくてはいけない、と常々言っていたんだそうです。ジャム&ルイスのサウンド、とても映像的ですよね。

 こうしてディナのマネージメントの元、プロデューサー・チームとして船出した彼らは自身の会社を作りフライト・タイム・プロダクションズと名付けます。フライトタイムはザ・タイムの前身バンドの名前でした。ドナルド・バードというジャズ・ミュージシャンのアルバムからとった名前でアマチュア時代の彼らはドナルド・バードの曲を演奏していたそうです。そして、このフライト・タイムのボーカリストだったのがアレキサンダー・オニールでした。

  ジャム&ルイスの成功物語。自分たちから行動しきっかけをつかみ、人との出会い、繋がりを大事にしながら仕事を積み重ねていったことがわかります。どんな仕事でも断らず丁寧にやる、特にキャリアの初期にはこういう姿勢は大事なんだと思います。



 

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