ナラダ・マイケル・ウォルデンは間違いなく1980年代を代表する大ヒット・プロデューサーです。R&Bの枠を超えてポップの世界でも大成功しました。しかし彼は、なんとも全体像が掴みづらい人でもあります。70年代と80年代では別人のように仕事ぶりが違うからです。

 まず、彼のキャリアのスタートは”スーパー・ドラマー”として始まりました。マハビシュヌ・オーケストラというフュージョン・グループでプロとしてのキャリアをスタートさせます。このグループで彼はすでに作曲やボーカルも手掛けピアノも演奏するなどマルチな才能を発揮しています。フュージョンのグループの最高峰、ウェザー・リポートのアルバム「Black Market」(1976)でも2曲ドラムを担当しています。

 また、ジェフ・ベックの最高傑作として名高い「ワイアード」(1976)というアルバムで、ドラムを叩いているのが彼でした。この曲はアルバムのオープニング曲で、彼のプレイがいきなり炸裂しています。

  ちなみにこのアルバムの半分にあたる4曲を彼が作曲しています。

 「ワイアード」と同じ1976年にはアーティストとしてソロ・アルバム「Garden of Love Light」を発表します。フュージョンの作品ではありますが、4曲は自身でボーカルをとっています。 77年のセカンド「I Cry, I Smile」では完全なボーカル・アルバムになりR&Bににじり寄ってくる感じはありました。もともと歌うことへの意識の強い人だったようです。そして、79年には「Awakeninng」「The Dance Of My Life」と2枚のアルバムを作り、一気にディスコ・サウンドにアプローチし、R&Bのマーケットでも好リアクションを受けます。

  フュージョンからディスコサウンドへの移行というのは、当時そういう気運は間違いなくあったのでしょう。1979年はクインシー・ジョーンズが手がけたマイケル・ジャクソン「オフ・ザ・ウォール」が出た年で、1980年にはジョージ・ベンソン「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」なども生まれます。

 また、マハビシュヌ・オーケストラとジェフ・ベック「ワイアード」はジョージ・マーティン、自身のソロ・アルバムではトム・ダウトと、キャリアの初期に伝説的なプロデューサーの仕事ぶりを目の当たりした彼はプロデュース業にも興味があったようで、まず当時13歳だった女性シンガー、ステイシー・ラティソウのプロデュースを行います。

 彼女のプロデュースは1980年の「LET ME BE YOUR ANGEL」から1984年のジョニー・ギルとのコラボ・アルバム「Perfect Combination」まで5作も続きました。

    しかし、ジョニー・ギル、まだ20代前半だと思いますが、ルックスに比べて声の”ベテラン感”がハンパじゃないですね。

    さて、ナラダにとって、ダンス・ミュージックに大きくかじを切った直後に10代の女の子のプロデュースを5年に渡って続けたというのが、とても大きかったのではないかと今にしてみると思いす。 当然”ポップ・マーケットにうけるR&B”というのだ大命題だったはずで、80年代初期のポップヒットも彼なりに数多く研究したはずです。その作業で培ったノウハウが1985年に爆発するわけです。

 ちなみに彼は、81年にはシスター・スレッジのプロデュースを行い、スマッシュヒットを記録します。
「All American Girls」。


  シスター・スレッジは前作まではシックのナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズのプロデュースでしたので、そのサウンドを踏襲しながらわかりやすくしたような作りになっています。まだ、このころはいわゆるナラダ・サウンドは出来上がってなかった訳です。

 そして、彼がプロデューサーとしての大爆発した1985年です。
彼は、R&Bの女王アレザ・フランクリンを実に12年ぶりにポップチャートのトップ3に返り咲きさせます。

 そして、同年鮮烈なデビューを飾り、後に新しくR&Bの女王とも呼べる存在になったホイットニー・ヒューストン、サードシングルにして、全米1位になったこの曲。


  この軽快でポジティヴなポップ感こそが、ナラダの持ち味。超絶技技巧のドラマーでいながらプロデューサーとしてためらわずドラムマシーンを導入し、楽天的なこの時代ならではのムードに完璧にフィットしたサウンドを作った訳です、このためらいのなさこそが彼の良さでしょう。売れるために渋々やっているのではなく吹っ切れてやっている感じがします。

 今回僕は彼の作品を時系列的にざっくり追ってみたのですが、70年代と80年代(正確には79年以降)作風が大きく変わるのですが、彼の音楽には一貫して「ポジティヴさ」、かなり精神的なものに根ざしているのではないかと思われる「明るさ」「ポジティヴさ」があるように僕は感じました。

 僕がリアルタイムで知る限り最もポジティヴで明るかった80年代の空気と、彼の本来持っている資質が猛烈に化学反応を起こしたのではないかと思います。彼は音楽家としての資質、技量ともにスーパーマン・レベルの人だったと思いますが、強いエゴで自分だけの世界を作るタイプではなく、あくまでもオープンで共同作業を得意とするスタイルだったのがまた時代的に良かったのでしょう。

 80年代だったからこそ、彼はスーパー大ヒットプロデューサーになり得た、ということです。

 1990年にマライア・キャリーのデビュー曲「VISION OF LOVE」の共同プロデュースを彼が手がけるのですが、彼が加わったのは曲やアレンジがある程度出来上がってからだったようです。売れるための最後の仕上げを任された、ということなんだと思います。
 現代最高のヒットプロデューサー、マックス・マーティンも制作の途中から”売れるための最終仕上げ”に呼ばれるようなこともあるようですが、この時代のナラダは、彼の手がかかるとヒットする確立が上がる、というような業界的なムードは確実にあったのでしょう。

 さて、このブログのテーマである、都会的な大人のR&Bという視点では、彼の明るくポジティヴな作品は当てはまらないものは多いのですが、その中で僕の一押しはこれです。
  ジョージ・ベンソン1986年の「While The City Sleeps,,,」。同じくらいの時期にフュージョンからディスコへ移行した両者が、ここで邂逅しました。
 シンセファンクの波がやや静まり、ニュー・ジャック・スウィングの嵐が巻き起こる前のいわば「凪」の時期であった1985年と1986年。僕もこのブログで何度も繰り返していますが、都会的なミドル、バラードがたくさん生まれた「アーバン・アダルト・R&Bの当たり年」です。その時代のムードを、実に的確に嗅ぎ取ったのがこのアルバム。当時の僕はさすがジョージ・ベンソン、いいところついてくるなあ、ナラダもいい仕事してるじゃん、と思ったものです。そこからのシングル曲がこれですが、さかのぼれば「セクシャル・ヒーリング」にたどりつく、そういうテイストですね。この時代のひとつの定番パターンでもありました。



 そしてもう1曲、ナラダ作のアーバンR&Bをあげるとしたら、レジーナ・ベルのR&Bチャート1位のこの曲を僕は推します。1989年の作品。このころはナラダも落ち着いたムードのある曲(もちらん彼らしい明快さはありますが)もやるようになっていました。