シャーデーは今までR&Bの文脈で真正面から語られることはあまりなかったかもしれません。僕自身もリアルタイムでは、スタイル・カウンシルやエヴリシング・バット・ザ・ガールなど当時イギリスで台頭し始めたおしゃれなアーティストと同じ仲間だと認識していたように思います。
 シャーデーを完全なR&Bのアーティストとして捉えるのは無理があるとは思いますが、特に1980年代に彼女たちがアメリカのR&Bシーンへ与えた影響は決して侮れないレベルのものだったのは間違いありません。特に、僕がこのブログで取り上げている都会的な大人のR&Bの形成や、R&Bバラード・シンガーたちのの作品のテイスト、アレンジへの影響はかなりのものでした。例えばアニタ・ベイカー、レジーナ・ベルといった人たちが活躍しやすくなったわけです。

 ルース・エンズの話のときにも触れましたが、イギリスのアーティストがアメリカのR&Bシーンで成功するのは大変に難しいことでした。現在でもそれは変わっていません(ポップスやロックの世界では
古くはビートルズ、最近ではアデルなど 、時代を変えたようなイギリスのアーティストは少なくありませんが)。なぜ、シャーデーがアメリカのR&Bマーケットで大成功したのか、これはあらためて考えてみる価値があることだと僕は思います。

 彼らについて調べてみて驚くのは、いわゆるヒット・プロデューサーや山師的な業界人などが全く関与していないということです。一発当てようとか何かを”狙って”作ってはないのです。あくまでも、グループのアイコンである、シャーデー・アデュの愛する音楽を反映したオリジナルを作っただけなのですが、それがあまりに絶妙なタイミングでマーケットにずばっと刺さった、そんな印象があります。

 まず"Pride”というジャズ・ファンク・バンドのメンバー募集のオーディションで、シャーデーの核であるシャーデー・アデュとスチュワート・マシューマンが出会ったことがきっかけでした。そして、共に”Pride”にバックコーラスとサックス・プレイヤーとして参加します。

 

  スチュワートはPrideをザ・クラッシュとラテン音楽をミックスしたようなバンドだと評しています。
 最初からアデュの存在感は別格だったようで、バックコーラスの彼女がバンドで一番目立っていたようです。その後スチュワートと アデュは意気投合し一緒に曲作りを始めます。アデュの部屋にはレコードコレクションがあって、彼女の好きなチェット・ベイカー、ニーナ・シモン、カーティス・メイフィールド、アル・グリーンなどをスチュワートも聴きながら曲作りの参考にしたようです。
 こういう成り立ちのグループの場合、ボーカル以外の人間が音楽的主導権を握っていることが普通ですが、シャーデーの音楽的基盤である古いソウルミュージックやジャズの造詣が最も深いのはアデュ本人だというのが興味深いです。

 Prideのベーシストとあらたに同じクラブに出演していたキーボーディストを加えて新しいグループを結成します 。バンドメンバーの中でジャズの素養のある人間はひとりもいなかったようです。

 彼らはロビン・ミラーというプロデューサーの元で”Smooth Operater"と"Your Love Is King"という後の代表曲になるデモを作り、レコード会社に売り込みます。 デモの反応はなかったのですが、ライヴを重ねるうちにアデュの圧倒的な個性が話題になっていきます。レコード会社から沢山オファーがあったのですが、どれもアデュの個性に惹かれたもので音楽性は変えようとするものばかりでした。そして、ロビンと一緒にやっていきたいという彼らの要望を唯一OKしたエピック・レコードからデビューすることになりました。

 ちなみにデビュー前の彼らがライヴで取り上げたカバー曲は、デビューアルバム「Diamond Life」 にも収録されていたティミー・トーマスの「Why Can't We Live Together」、他にはウィリアム・デヴォーンの「Be Thankful For What You Got」UKのファンク・バンド、ホット・チョコレートの「Heaven Is in The Backseat of My Cadillac」といったものだったとのことです。

  シャーデーのデビューアルバムはイギリスで瞬く間にヒットします。そしてその状況を受けてアメリカでも発売することになります。その際彼らが会ったアメリカのレコード会社の人間は「最初に黒人層にウケなければダメだろうし、支持されればクロスオーヴァーしてアメリカ全体でもヒットするだろう」と言ったそうで、その意見を受けてアメリカでの最初のシングルはアルバムの中で最もファンクっぽいグルーヴのある「Hold On Tou Your Love」になり、黒人向けのラジオ・ステーションで真っ先にプロモーションが始まったそうです。
 


  結果この曲はR&Bチャートで最高14位まで上がるヒットになり、その流れを受けてリリースされた彼女たちの代表曲「Smooth Operater」はR&Bチャート、ポップチャートともに最高5位に上がる大ヒットとなり、まさに黒人層から始まって全体に広がる形になりました。

  当時の彼女たちのレコーディングについて興味深い話があります。
 コントロール・ルームを真っ暗にしてメンバー全員でリスニング・セッションをしたということです。
レイ・チャールズ「Don't You Love Me Anymore」、ギル・スコット・ヘロン「Pieces Of A Man」、マーヴィン・ゲイ「トラブル・マン」、ビリー・ホリデイ「奇妙な果実」、ニーナ・シモンのアルバム
などだったそうです。


 アルバムのレコーディングを通してこういう楽曲群を聴きながら、メンバー,スタッフ全員の心の状態を共通した深くエモーショナルなものにしていたということです。

 「DiamondLife」は古い黒人音楽に心を深く集中して作られた作品なのです。そういう真摯さは本場のアメリカの黒人のオーディエンスにもしっかり響いたのでしょう。決してファッションではなかったのです。
 彼女たちの成功のきっかけは、ファッション・アイコンでもあったアデュの圧倒的な個性の新しさによるところが大きいでしょうが、音楽的にも"ディスコ以前”のヒューマンでエモーショナルなR&Bを新しく蘇らせたというのが大きいでしょう。80年代前半の音楽は打ち込みの大幅な導入とMTV仕様のにぎやかなアレンジが全盛で、少し騒がし過ぎました。その揺り戻しが始まった1984年あたりに、ちょうど絶妙なタイミングで彼女たちはあらわれたのですが、ただ、それは狙いではなく、”たまたま”ではあったのですが。

 続くセカンドアルバム「Promise」はR&Bチャートで11週連続No.1という大ヒットになりました。 その後もアルバムを出せば(本当にたまにしか出しませんが)、大ヒットを記録、2010年のアルバム「Soldier Of love」も前作から10年もたっているのに、R&Bチャートで1位を獲得しています。

 いまHIPHOPで最も売れるアーティストであるドレイクもシャーデーの熱狂的なファンであることを公言してはばからない そうですが、HIPHOP、R&Bシーンで絶大なる信頼を今も得ているのは間違いなく、こういうアーティストは他にはいないでしょう。