ハッシュ・プロダクションズ

 80年代R&Bを好きな人には忘れることにできない名前です。現在もハッシュ/オルフェウス・プロダクションズという名前で存在しています。
 そのHPにこんなキャッチが書いてあります。

  ザ "ハッシュ・サウンド" フロム・ニューヨーク・シティ

 ハッシュ・プロダクションズの作った音はまさに80年代ニューヨークの音でした。
    デトロイトのモータウンやフィリー・サウンドのフィラデルフィア、プリンスのミネアポリス、90年代R&Bの首都だったアトランタなど、R&Bはさまざまな都市が発信地になっていましたが、ニューヨーク発のR&Bサウンドというのは意外にも珍しかったのです。 

 70年代後半にニューヨークには有名なディスコがありブームのメッカだったというのが大きかったのだと思います。 ディスコのカウンタカルチャーとしてヒップホップも生まれていました。ニューヨークのR&Bシーン自体に活気があったのでしょう。

 それから社会背景では、1970年頃に比べ黒人の雇用が増え、中流階級や富裕層が増えていったのがこの時代です(ちなみに貧困層の割合は変わっていません)。

 増えてきたニューヨークの中流黒人層に、どんぴしゃハマったのがハッシュ・サウンドだったわけです。
 ちょっとリッチな黒人が大都会で生活する上でのサウンド・トラックというところでしょうか。
そして、そのサウンドを担っていたのが、前に紹介しましたカシーフであり、ポール・ローレンスでした。また、シーンの象徴的存在だったフレディ・ジャクソンのマネージメントもハッシュがやっていました。「Do Me Baby」のメリッサ・モーガンもそうでした。


 さて、そのハッシュ・プロダクションズの歩みをおさらいしてみましょう。

 ハッシュ・プロダクションズは1973年にR&B女性シンガー、メルバ・ムーアのマネージメント会社としてメルバと彼女の旦那で当時クラブをいくつか経営していたチャールズ・ハギンズという人物によって作られました。日本でも女性歌手の旦那さんが事務所の社長っていうパターンありますね。そして、会社はマネージメントだけではなく彼女のアルバム制作もやるようになります。そこで、さまざまなミュージシャンとのパイプが増えていきました。そんな中カシーフとポール・ローレンスとプロデューサー、ソングライター契約を結ぶことに成功します。彼らはモリー・ブラウンのマイティMプロダクションとしてメルバ・ムーアの1982年のアルバムを制作しています。 その中から1曲、R&Bチャート5位まで上がった曲です。曲はポール・ローレンス。アレンジはポールとカシーフが共同で行っています。

 
 マイティMからどのタイミングでどういう形でハッシュに移ったかは不明ですが、ここからハッシュの快進撃が始まる訳です。
 ハッシュにおけるポールとカシーフの存在は、ちょうどモータウンにおけるホランド・ドジャー・ホランド、フィラデルフィア・インターナショナルにおけるギャンブル&ハフ(彼らはレーベル設立者でもありましたが)のようなもの、とも言えるでしょう。
 ただし、当時のハッシュはレーベル機能はなかったので、主にキャピトルといったメジャーレーベルとプロデュース契約をする形で制作をしていました。そしてヒットを飛ばし、評判が上がると才能も集まってくるようになります。バリー・イーストモンドや元チェンジのティミー・アレンなどもハッシュで仕事をしています。ポールの学生時代の仲間だったフレディ・ジャクソンはハッシュの作品のバック・コーラスとしてキャリアをスタートさせています。
   シンセサイザーとドラムマシーンの導入で味気ない感じもあった当時のR&Bが、かつてのソウルミュージックのロマンティックな感触を取り戻すことができた。その何よりの証明が、ハッシュプロダクションズの作品だったと思います。 

   ハッシュのこの1曲というのはかなり迷いますが、会社設立の根拠であり社長夫人のメルバ・ムーアと彼女のバックボーカルからスタートしハッシュの看板にまでなったフレディ・ジャクソンのデュエットというのがあります。しかも、1986年にはR&Bチャートを記録したのですから、さぞやハッシュ関係者に”栄華を極めた感”があったも違いありません。
ソングライターの1人には、マクファデン&ホワイトヘッドのジーン・マクファデンがいるのにも注目です。Ain't No Stoppin' Us Nowの大ヒットで知られる、フィラデルフィア・インターナショナルのソング・ライターチームは80年代にはハッシュ・プロダクションズで活動していました。