さよならアーバン〜都会型R&Bの世界

2020年、音楽のジャンルから”アーバン”が消えてしまいましたが、”アーバン”がまだ肯定的で魅力的な言葉だった時代の、都会的で大人なR&B(ブラコン?)の流れを振り返ります TEXT by 堀克巳(VOZ Records)

2018年01月

 共にNYハーレム出身で、共になかなかチャンスをつかめないでいた男性シンガーとHIPHOPの若きクリエイターが出会ったことで、R&Bシーンの歴史を変える新しいサウンド・スタイルが生まれることになります。
 シンガーの名前はキース・スウェット。 証券マンをやりながら、ナイトクラブなどで歌手活動を並行してやっていました。 
   1985年にはスタジアム・レコードというインディーズからシングルをリリースしています。この時すでに25歳でした。
 

 クリエイターの方は、テディ・ライリー。おじさんがハーレムでクラブを経営し、スタジオも持っていたために、幼い頃からそこに入り浸ったこともあって音楽的に早熟だったようです。 
 17歳で「KIDS AT WORK」というグループでメジャー・デビューもしますがすぐに解散してしまいます。 
   
 それからは、ヒップホップのトラックメイカーとして 活躍することになります。
 1986年にはクール・モー・ディーの「Go See The Doctor」という曲をプロデュースし、インディーズながらビルボードチャートで89位まで上がるヒットになりました。

  いまあらためて聴き直すと、”ハネているリズム”に、テディ・ライリーが生み出したあの”新しいサウンド”の原型が既に現れていたことに気づきます。

 ニューヨークのクラブシーンで知名度を上げていたふたりはお互い面識があったようですが、キースのデビュー作を共同で作りを始めることになります。

 興味深いのは、それまでテディはヒップホップしか作ったことはなく、声がかかるまでR&Bをやるつもりはなかったということです。 キースとの仕事で初めてR&Bをやることになり、彼はクインシー・ジョーンズ、プリンス、ジェームス・ブラウン、ギャンブル&ハフ、カシーフ、エムトゥーメイなどを研究し吸収していったようです。

「ラップのプロデューサーで僕が学べる人はいなかったから、ラップは自分だけでやっていたけど、R&Bはそういう人たちの曲をたくさん聴いて学んでいったんだ」 

  今の時点で振り返ると、当時のテディの作ったラップものはあまりHIPHOPっぽくない、という評価もあるようですが、誰からも学ばずに我流でやっていたので仕方ないともいえます。また、彼の適性もR&Bのほうにあったのかもしれません。

 でも、当時のHIPHOPサウンドにモロに影響を受けず我流だったとことが、 かえって新しいサウンドを作る大きな要因になったのではないかと僕は考えています。

 その新しいサウンドとは”ニュージャック・スウィング”。それを世に知らしめたのがキース・スウェットのデビュー曲「I Want Her」。1987年後半発売で1988年には年間最も売れたR&Bシングルになります。 無名の新人がそこまで成功するわけですから、それだけ当時斬新だったわけです。



  この曲の収録されたアルバム「Make It Last Forever」もR&BチャートNO.1になります。 
 ただ、あらためてこのアルバムを聴くと「I Want Her」が異色で、基本ミディアムからスローの曲で構成されています。前回ご紹介したように1987年は、セクシーでロマンティックなミッドかスローな曲をやるというのが主流で、ニュージャックの出発点と思われているこのアルバムも、全体的にはちゃんとそれに準じた作りになっているということです。キース本人の嗜好もそっちだったと思われます。
 そして、その後のキース・スウェットの歩みを見ていくと、セクシーで”まったりした”楽曲でR&Bの帝王の一人になっていきます。決して"ニュージャック・スウィングのアイコン”にはなりませんでした。

 「I Want Her」はキースがテディに”ノせられて”やったようにも思えます。

 そして、この曲でテディは絶妙なディレクションをします。

 「わざと鼻にかかった声で歌ってほしい」

 とリクエストしたらしいのです。キースは最初は拒否しましたが、結局要望に応えます。

 思い出してください。87年の男性R&Bシンガー、ほぼ全員が、おしゃれで、セクシーで、ロマンティックな、ミディアム・スローを歌い、大衆もいい加減飽きてきたところに、”やたらリズムがはねているノリのいいトラックに乗った鼻声の男の歌”が聞こえてきたら、そりゃあ無茶苦茶目立ちます。

 キース・スウェットの個性を考えたら、テディ以外のクリエイターと組んだら、1987年に量産された"セクシャル・ヒーリング系”のアーティストと同じようなサウンドになっていた可能性だってあったと思います。テディのトラックはミディアムやスローでも、すでに熟(こな)れた感のある当時の他のR&Bに比べて、リズムのエッジが妙に立っていました。

 それを考えると、キースとテディの邂逅、そして既存のスタイルが飽和状態で体臭が飽き始めていた1987年というタイミング、すべてが絶妙にハマったと言えると思います。

 そして、ニュー・ジャック・スウィングは、90年代にR&BとHIPHOPが融合する以前の、最後のR&Bサウンドという見方もありますが、今検証してみると、HIPHOP畑のクリエイターとR&Bシンガーの化学反応ということでは、HIPHOP SOULの前ぶれ、でもあったのだと僕は考えています。

 キース・スウェットも、脱”セクシャル・ヒーリング”、脱”ロック・ミー・トゥナイト”に成功し、かつ現在の”R&Bの王様”R.ケリーの登場への道筋を作った、重要な存在であったと思います。
 90年代のR&Bの王様はフレディ・ジャクソンとルーサー・ヴァンドロスでした。90年代半ばから現在まではR.ケリーの超長期政権が続いています。その間に、キース・スウェットを置いてみると、王座の移行がとてもスムーズに見えてきます。

 R&BがHIPHOPに吸収されてゆくという、歴史的な大きな大変革の時期に、キース・スウェットとテディ・ライリーは重要な橋渡しの役割を担ったのだと僕は考えます。彼らが活躍したからこそ、その移行がスムーズになったのです。

 テディがキースに指示した「鼻声ディレクション」というのも、トラックを生かすボーカル・ディレクションという意味で、R.ケリーが得意とするヒップホップ・シンギングの先駆けだったのではないか、とも思えてきます。もちろん、テディやキースは作品を面白くする、ためだけのふるまいだったのでしょうが。
 最後に「Make It Last Forever」のタイトル曲を。今ではR&Bの定番曲のひとつ。あらためて聴くと
トラックは当時の”セクシャル・ヒーリング調”のマナーにけっこう従順に作られています(リズムは大きめですが)。でも、当時フレディ・ジャクソンたちと全然違って聴こえたのは、テディのトラック以上にキースの声質が大きかったのかも、という気もします。


Make It Last Forever
Keith Sweat
Rhino Flashback
2011-06-21



 
 
  

 80年代のR&B男性シンガーの大きな指標は「セクシャル・ヒーリング」と「ロック・ミー・トゥナイト」だった、と言い切ってしまってもかまわないでしょう。

 そして、そういう 雰囲気を纏ったシンガーがたくさん出てきました。

    セクシャル・ヒーリング ×ロック・ミー・トゥナイト路線で最も成功したのがグレゴリー・エイボット。思いっきり薄味にして飲みやすく仕上げたことで、ポップチャートの方で1位を飾ることになりました。1986年作。
 
 この曲の大ヒットもあって、1987年にはこういうタッチのサウンドを取り入れたR&B男性シンガーがどんどん出てきます(そして結果的にトゥマッチになって消えて行くことになります)。

 次に紹介するのは、当時の”R&B通”から無茶苦茶評価が高かったグレン・ジョーンズ。昔からの古いソウル・ファンは甘みの強いソフトなボーカリストには総じて辛口で、彼のようなゴスペルのバックグラウンドがしっかり感じられるような人が評価されていました。そんな彼も87年にはこんな曲を。ユージン・ワイルドの「Don't Say No Tonight」あたりと近いテイストがあります。


 こちらはもっと通好みのジョージ・ペタス。1987年にリリースしたアルバムのオープニングは、ホイットニーの「You Give Good Love」を書いたLaLaの作品でした。

 アレキサンダー・オニールがブレイクした「Tabu」レーベルの隠れた名シンガー、ジェイムス・ロビンソン。これまた1987年リリースのデビュー作から。

  1987年にアルバムを一枚リリースしたきりのシェリック(1999年に他界)。L.T.Dやエンチャントメントの仕事で知られてているマイケル・ストークスのプロデュースでした。

  続いてNY出身のマイルス・ジェイ。1987年のデビュー曲はR&Bチャート5位まで上がりました。
 
  あのHIPHOPのデフジャムまでがこんなアーティストを!チャック・スタンレー、1987年。
 
  
 このセクシャル・ヒーリング×ロック・ミー・トゥナイトの路線の白眉というか、最高傑作はこれだと僕は思っています。1987年年末のNO.1ヒット。R&B男子のまったりセクシーミディアム路線は、それが好きな僕ですらいい加減食傷気味だったところだったので、このロジャーのヴォコーダーとミックスした軽やかなスタイルは、ご本人の意図はわかりませんが、同じタイプばかり生まれるシーンへの軽いパロディーにすら思えました。この曲の大ヒットに合わせるように、このサウンドの流行は徐々に下火になります(ただ、消えはせずにしつこく残りましたが)。そして、この曲とクロスオーバーするように同時期に革新的な新しいサウンドが現れ 翌88年にはシーンを席巻するようになりますが、それはまた次回に。
 

 1980年代は、バラードを得意とするR&B男性シンガーが数多く現れた時代でもありました。
 ルーサー・ヴァンドロスとフレディ・ジャクソンという”二大巨頭 ”のおかげとも言えますが、今思えばめずらしい時代でした。
 
 それから、ルーサー、フレディに匹敵する才能と技量を持ちながら、R&Bの範疇を超えてスタンダードなスタイルで人気を得た人たちがいます。僕は「王道御三家」と勝手に名付けましたが、今回はその三人をご紹介します。そんな彼らも86年あたりには、アーバンでメロウなR&Bの流儀の作品を作っています。

 まずははジェフリー・オズボーン。1970年代L.T.Dというバンドのボーカリストで、80年代にジョージ・デュークのプロデュースでソロ・デビューを果たします。 ルーサーはマーカス・ミラーと組みましたが、”フュージョン”のアーティストとがっちり組んだことが両者に共通しています。83年のセカンドアルバム「STAY WITH ME TONIGHT」は当時日本では「貴女と過ごすおしゃれな夜」なんて副題がつけられていました。かなり小っ恥ずかしいけど、そんな時代だったんです。

 86年には彼の最大のヒットが生まれました。曲作りにブルース・ロバーツというAOR系のソングライターが加わっているのもいかにもこの時代らしいことです。

  次は、ピーボ・ブライソン。今では、「美女と野獣」と「ホール・ニュー・ワールド」を歌った人で集約されそうですが、もともとはダニー・ハサウェイが亡くなった後、ロバータ・フラックの相棒に抜擢された、音楽的素養がしっかりあって曲作りにも長けた才人です。彼の本領を知るには70年代後半の彼のアルバムを聴いた方がいいのですが、80年代中期のエレクトラに移籍してリリースした作品は、アーバンでアダルトな時代にフィットしたものでした。この時代の代表曲は、ホイットニーの「すべてをあなたに」や「グレイレスト・ラヴ・オブ・オール」などを書いたマイケル・マッサー作の「If Ever You're In My Arms Again」です。

 そして、86年にその名もズバリ「Quiet Storm」というアルバムを出していますので、そこからのファースト・シングルも紹介します。

   そして最後はジェイムス・イングラム。クインシー・ジョーンズの秘蔵っ子として、彼のアルバム「愛のコリーダ」で稀代の名バラード「Just Once」を歌いました。
 
 その後のパティ・オースティンとのデュエット「あまねく愛で」と「君に捧げるメロディー」も素晴らしい曲でした。この人の場合、キャリアのスタートからR&Bとポップをクロスオーバーした王道のボーカル、という佇まいでしたが、86年には、時代の風に従って、クワイエット・ストームなアーバン・アルバムを作ります。組んだプロデューサーはキース・ダイアモンドでした。
 

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